二十分もしない内に、私は家に戻りました。コストパフォーマンスの悪いプラスチックケースに包まれた食品と、1.5リットルのペットボトルを携えて。
そうしてすぐに新たな問題点に気付きます。
気付きましたが、まずは空腹を満たすのが先なので、暖めてもらったお弁当のラッピングを解き、口に運びながら、店員の物珍しげな視線が嫌だったなとか、もっと買い込んでおくべきだったかなどという後悔に余念を逸らします。相変わらず世界というやつは、後悔の浴槽に浸ったまま乾く気配もないのです。
問題点は単純なものでした。
この家が、この部屋だけで構成されている以上、生活に支障を来す不便さが生じるのは疑う余地もありません。
差し迫っているものとしては、トイレと、バスルーム。
人は新陳代謝を繰り返して生きています。時が流れれば、同じ分だけ古くなった細胞が捨てられていくのです。いわば人は毎日、自分自身と別れ続けているようなもの。……だとすれば取り残されるのは、新しく生まれる細胞の方?
栄養を摂取したことで余裕のできた頭は、早くも現実を逃避する横道を歩き始めています。行き止まりなのは分かっていても。
トイレに関してはコンビニにあるでしょうし、他の所にも探せば見つかるでしょう。けれど浴室は望み薄です。銭湯なんてものがこの村にあるかは怪しいし、あったところでとても利用する気にはなれません。私は今日、外に出たばかりなのですから。
食事を摂っただけで、もうくたくたでした。考えることが多すぎて、何から手を付けていいのか分かりません。身体は自然とベッドに向かい、休息を取る姿勢になっていました。
仰向けに横たわりながら、天井の質感が変わっていることに気が付きます。私の部屋のものは何一つ変わっていないのに、家を構成する素材はまるっきり別のものへと変貌を遂げているようでした。
まるでこの部屋がひとつの生き物になって、私はその体内で暮らしている寄生虫みたいなものじゃないか、と、面白くもない比喩を考えて、気味の悪さに身を縮ませます。本当にそうではないと否定できる理屈が、どこにも見当たらないせいでした。
本当はもっと足繁く、隅々まで村を散策するべきなのでしょうが、今の私は生まれたての小鹿よりも歩く力がありません。長らく使われていない筋力は精神とともに退化し、失われるのです。そして一度失ったなら、取り戻すには並大抵の努力では適わない。
努力も力の一種ですから、努力の筋力が衰えてしまっている私には、もう成す術がないのです。そんなものがもし備わっているとしたら、こんな境遇に陥ってなどいないに違いないのですから。
考えれば考えるほど無為な思索を続けてしまいそうなので、私は本棚から適当に文庫本を一冊引き抜き、活字を追うことでマイナス思考からの脱却を試みました。
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