おしまいにしたくても人生は続きます。
誰しもご存じの事と思いますが、物事には順序や段階というものがあります。誰も暖めない卵がひとりでに孵って雛になり餌をとり成長し鳥になるといったプロセスはありませんし、何も放り込んでいない焚き火の中に焼き芋が転がっていたりもしません。
私の両親は、そういった奇跡を信じているようです。無宗教の癖に、自分にとって都合のいいことだけは無条件で信じ込む。悪しき偏見に凝り固まった人種には、嫌悪感を覚えます。
手紙からはいくつかの事が分かりました。
まず、筆跡から手紙の書き手は母であるということ。
ここはどうやら、ここみん村と呼ばれる地域であるということ。
私の両親は大馬鹿者であるということ。
重要なのは主に三つ目ですが、順序も段階も踏まえている私としては、まずは驚き、疑い、何度も手紙を読み返しては、嘆息の力を借りて現実を引き延ばします。
突然みなしごになったからといって、ミツバチみたいにわんわん泣き喚いたり、親を探しに出かけたりなんかしません。だって彼らは私を見捨てたのだし、元より助けてなんてくれないのですから。
こうなった以上、卑近な問題から片付けていくしかありません。解決できないような問題は取り組むこと自体に価値がないので、解決策のありそうなものから手をつけていくべきです。
ともかく私は昨日から何も口にしていません。飢えと渇きが喉を締めつけて、唇もかさかさです。
私は家に戻り、本棚を徹底的に調べました。J.D.Salingerの『倒錯の森』の間に挟まれていた茶封筒の中には、紙幣が数枚、威厳のある表情で佇んでいました。
当面の生活費。
当面って、いつまで?
じわりと滲む疑問は捨てて、私は何年も前に編んだまま一度も着用していないニットキャップをタンスから取り出し、目深に被りました。風体の怪しさなんて気にしていられません。他人と正面から向き合って話すなんて恐ろしいことを、これからしなければならないのですから。
目標地は、遠くに見えたコンビニエンスストア。長らく外を出歩かない生活をしていたせいで、いまいち距離感が掴めませんが、視認できるぐらいなのだからそう大した距離ではないはずです。
陽射しの眩しさに目を細めながら、私は見知らぬ土地を散策し始めました。
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