バイト先の店長に「昭和町見聞録」という題名の本を貸してもらった。
かつて隆興していた実在の町らしいのだけど、具体的な位置がはっきりせず、詳しい記録はほとんど残っていないそうだ。この本は、店長の親戚が書いた自主製作の本で、体験談を元にした小説形式の見聞録だという。どこまで本当かはわからないけど、なかなか面白い内容だ。水路に囲まれた、石畳の町。
ニジサンはベランダの傍で腹ばいになり、ノートに何かを熱心に書いている。季節柄、伸び放題の髪の毛が少し暑苦しそうだ。
先日、あのざんばら髪をなんとかしてやろうと思い、美容室に連れて行ったのだけど、店員を怖がって椅子に座ってもくれなかった。僕が切ってあげるしかないだろうか。
ぱらりとページを捲る。
行くあてのない主人公が、煙草屋で出会った少女に地図を渡されるところで、呼び鈴が鳴った。
栞を挟んで本を閉じ、玄関に向かう。
「おっす」
立っていたのは猫だった。
もう少し正しく描写すると、友人の島村と、その上に乗っている一匹の猫だった。
猫は、島村の頭上に這いつくばるように、だらんと四肢を預けている。
僕は無言でドアを閉めた。
「待て待て待て。入らせろよ家に。門前払いかよ」
勝手にドアを開いて、侵入してくる猫。(と島村)
「何なのそれ。新しいファッション?」
「ちげーよ馬鹿。ファッションじゃなくてあれだよ、おまじないだよ」
「おまじない?」
「こうしたままで友達の家を三軒まわるとだな、たちどころに幸福になれるらしい。そういう噂がある」
自信満々に猫(に付随した島村)は断言する。
信じる方も信じる方だけれど、本気で実行してしまう行動力だけは評価してもいいのかもしれなかった。
「誰から聞いたのそれ」
「いやなんか雑誌に載ってた」
「へえ」
「あとテレビの「今日の占いランキング」で、ラッキーアイテムが」
「猫だった?」
「まごの手だった」
「関係ないよね」
「猫の手で代用した」
「代用すんなよ」
「まぁともかくこれで俺は幸福になれるというわけだ」
頭限定で言うなら、十分幸せになっているかもしれない。
しかし三軒ということは、
「残り二軒はもう行ってきたんだね」
と言うと、猫(とドッキングした島村)は直立の姿勢のまま、固まった。
数秒間、長考した猫(からはみ出た島村)は、おもむろに踵を返すと、玄関を出て行き、ぴしゃりとドアを閉じた。
すぐにドアが開き、再び入ってくる。
「よう」
「よう、って言われても。たぶんそれカウントされないと思うよ」
ち、と舌打ちした猫(をジョイントした島村)は、不恰好に肩をすくめた。
「仕方ないな、日木さん家行ってくる」
結局、身じろぎもせず鳴きもしなかった猫を頭に乗せたまま、彼は去っていった。もしかするとあれはぬいぐるみだったんじゃないかと思うほど、大人しい猫だった。
部屋に戻ると、ニジサンがサボテンに水をやっている。いつ間にか和解協定が結ばれていたようだ。
とりあえず静かになったので、僕は読書を再開した。
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